スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

真珠湾攻撃から75年

 先月28日、安倍首相はオバマ大統領とともにオアフ島の真珠湾を訪れ、犠牲者を慰霊した。年末から年明けにかけ、真珠湾攻撃に関連する記事が目に留まる。1941年のことである。僕も両親も生まれてはいなかったが、両祖父母はすでに成人していた。僕の両祖父母も含めその世代の多くの人たちは既に他界しているが、首相の抱擁を受けたという米国の退役軍人は92歳とのこと。生まれる前の遥か昔のことのように思っていたが、ほんの75年前に起こったこと、その戦禍をくぐり抜けた人たちの一部はまだ生きているのである。
スポンサーサイト

旧東海道五十三次手形帳

 図書館に旧東海道五十三次手形帳というリーフレットが置かれていた。品川宿から川崎宿までの散策を促すスタンプ帳である。息子と行ってみるかと一部持ち帰り、今日、出発。あまり時間をかけてもたいへんなので、今回は息子を後ろに乗せてのママチャリ旅である。まずは北品川駅の少し先にある八ツ山橋へ。ここをスタート地点とした。せっかくもらって来た手形帳は、愚かにも自宅に置いて来てしまったため、最初の手形捺印所となっている品川宿交流館で新しいのを2部もらい、スタンプを押した。このスタンプがあるからこそ、息子は喜んでついて来た。僕もそんな子供だったからよく分かる。旧東海道を南に下り、次は浜川砲台近くの龍馬像。この辺りは謂わばホームグラウンドだ。鈴ヶ森刑場跡を超えて大田区に入り、さらに環七を過ぎると、馴染みがなくなってくる。3ヶ所目は美浜通りの老舗和菓子屋。2枚ともスタンプをきれいに押せず、悔しい思いをした。その次は六郷神社になるのだが、けっこう遠くて辛い。重くなった息子を後ろに乗せて必死に自転車を漕ぐ。入り口は小さいが境内は広く、りっぱな神社である。その先に箱根駅伝で知られる六郷橋。多摩川にかかる大きな橋だ。神奈川県に入り、川崎はもうすぐ。川崎宿も。終点は東海道かわさき宿交流館という所だったのだが、なぜか見つけられず、どんどん先へ行って市電通り川崎警察署東側入口の交差点まで来てしまった。疲れた。さすがにおかしいと旧東海道を戻る。かなり先まで行ってしまったようだ。交流館は新しく立派な建物だった。なぜ見落としてしまったのか。八ツ山橋からここまで1時間50分。スタンプは全部揃った。そして戻らねばならない。しかも、1年生になって初のサッカーの練習があるので大急ぎで。
b20160402

渋川春海の墓までランニング

 去年は月に一度はランニングをしようと娘と約束したのだが、5回しか走らなかった。今年こそは月に1回、年に12回が目標。この一月は東海寺大山墓地の渋川春海の墓まで行ってみることにした。新しく歩道橋ができたので、そこも渡ってみたい。久しぶりに走ったせいか、娘はお腹が痛いと言ってスピードを出せない。しかたなくゆっくり走る。前回は息子と自転車で行き、遠いようなイメージを持っていたが、歩道橋で山手線の内側に入ると意外と近かった。渋川春海が亡くなってからちょうど300年になるが、その時から墓地はずっとこの地なのだろうか。あと1メートルでも北か西にずれていたら東海道新幹線の敷設に引っかかっていたと思うが、実際には引っかかって移設された可能性もある。いや、彼に敬意を払い、少しずらしたのかもしれない。それはともかく、娘は渋川春海なんぞ知らない。説明書きがあるが読もうとさえしない。
b20160111

神戸海軍操練所

 神戸に来ている。神戸と言えばどこか行きたい場所があったはず。そんなことをふいに思ったのは昨夜のことである。そうだ、神戸海軍操練所だ。もちろんそんな場所はないが、せめて跡地を示す何かはあるはず。今年は司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読んだ。そして大都市神戸となる一つのきっかけを作ったのが徳川家茂と勝海舟であり、坂本龍馬や陸奥宗光ら多くの幕末の志士たちが集まった神戸海軍操練所を経て、日本の近代化へとつながることとなる。ひなびた一漁村に過ぎなかった神戸とはそんな場所である。ネットで調べてみると、三宮駅から歩いて行けなくはない。朝、旧居留地を通って海軍操練所跡なる場所に行ってみた。なるほど、派手な碑が建てられている。が、高いビルが立ち並び、高速道路も走っていて、辺りにそんな雰囲気は全く残っていない。向かって右側に小さく「海軍操練所趾」と書かれた石碑があるが、こちらの方が歴史を感じさせてくれる。とにかく広々としたこの地に徳川幕府による海軍操練所があり、坂本龍馬らが操船などいろいろなことを勉強していたのだ。旧跡巡りもただ来て他人の説明を聞くのと、一冊の本を読んでその一箇所にだけ行くのとではどちらが楽しいか、火を見るよりも明らかである。
Dec03_2015

第一次世界大戦まで生きた土佐藩士

 うちの近く、と言っても徒歩で行くのはかなりきついが、板垣退助の墓がある。もともと広大な東海寺の中の塔頭寺院の墓地にあったらしいが、今では品川神社の脇にひっそりとその一角だけが取り残されている。板垣退助は政治家のイメージが強いが、戊辰戦争では軍人、というか武士として活躍した土佐藩士、乾退助である。娘が幼い頃に一緒に行ったことがあるが、きのう久々に息子と行ってみた。大きく立派な墓石である。「板垣死すとも自由は死せず」の岐阜事件で落命したのかと思っていたが、日露戦争、さらに第一次世界大戦を見届け、大正8年に亡くなっている。
Jul19_2015

洗足池の畔にある勝海舟の墓

 息子と洗足池に行ったのだが、雨が降ってきてボートを出してもらえなかった。残念。今度また、娘も連れて3人で来よう。しかしここに来た主目的はボートを漕ぐことではない。勝海舟の墓を見たかったのだ。前々から行かねばと思いつつ、なかなか機会が得られなかった。今読んでいる『竜馬がゆく』でも頻繁に登場する。その人柄をここに簡潔に書き記すのは難しいのだが、司馬の原文一段落を引用させてもらうと次のようにある。「とにかく、勝には、妖精のにおいがする。そのいたずらっぽさ、底知れぬ知恵、幕臣という立場を超越しているその発想力、しかも時流のわきにいながら、神だけが知っているはずの時流の転轍機がどこにあるかを知っている。さらに竜馬と西郷という転轍手を発見し、さりげなく会わせようとするあたり、この男の存在は、神が日本の幕末の混乱をあわれんで派遣したいっぴきの妖精としかおもえない。」妖精という日本っぽくない言葉使いがやや引っかかるが、そんな男だったのだろう。旗本でありながら徳川幕府ではなく日本の将来を憂え、そんな言動を取りながらも幕末の騒乱の中で命を落とすことなく、明治の暮れまで生き延びているから、生前の勝と接した人の記録も多いに違いない。五輪塔の墓は自らデザインしたらしい。墓地は手が行き届いてきれいにされており、花が供えられていた。
Jul04_2015

174年前に彫られた道祖神

 実家のすぐ近くに道祖神がある。それだけでなく、市のあちこちにあり、観光の重要な目玉になっているらしい。当たり前のようにあったから特に気にしたことはなかった。この辺り出身のうちの両親は、道祖神を敬って何かをするどころか、話題に出すことさえ皆無である。しかし先月末、息子と帰省した際、散歩がてらに眺めてみた。まじまじと見るのは生まれて初めてのことかもしれない。石の裏側には天保十二丑正月などと書かれている。天保とは江戸時代だろうが、いつ頃のことだろうと帰京してから調べてみた。すると確かに丑年で旧暦一月はグレゴリオ暦で1841年1月末から2月に相当するらしい。ちなみにこの年には伊藤博文が生まれている。黒船来航の一昔前になる。174年間もあそこに居座っていたとは。我が家の先祖はその頃にはここに住み着いていたはずで、174年前にはなんらかの貢献をしたのか、それともうちの両親のように無関心だったのか。今や重要な観光資源となり、粗末にされるようなことはないと思うが、100年以上もの間、村民に敬われてきたからこそこうして残っているのだろう。
Jun03_2015

天童古城

 昨日から妻の実家である山形に来ていて、今日は久々に車を運転して天童温泉にやって来た。そして家族4人で舞鶴山の愛宕神社まで登った。かつてここには天童城または舞鶴城と呼ばれる山城があったようだが、今ではその面影はほとんど残っていない。温泉に浸かる前のなかなかいい散歩だった。
May03_2015

久能山東照宮

 昨日の一宮からの帰り、どこかに寄ろうという話になって、久能山を提案した。以前、ちびまる子ちゃんの一エピソードとして紹介されていて、いつか登ってみたいと思っていた。清水ICで降りて南へ。海沿いにそびえ立っているらしい。iPhoneで調べ、久能山東照宮は5時までと分かっていたが、駐車場に着いたのが4時35分頃だった。お土産屋のおばさんに登っても間に合わないと言われたが、僕自身はもともと東照宮に入る気はなかったので、行けるところまで行ければいいと思っていた。そうしたら友人はかなりのペースで登り始める。しかたなくついて行く。僕の方は毎朝の階段登りで、最低限の体力は維持し続けているが、これだけ息が切れるのは久しぶりだ。ちびまる子ちゃんで見たのよりも激しい登りが延々と続くところを小走りで駆け上がる。友蔵がばてていたのも無理はないかもしれない。一の門をくぐり、さらに登ると国宝となっている御社殿の入り口にたどり着き、4時55分。友人は財布を出している。ここで中に入ろうというのか。5分で何が見られるかと思ったが、けっきょくは5時ちょうどで閉め出されるわけでもなく、のんびりと散策することができた。知らなかったので驚いたが、本殿からさらに登ったところに神廟と呼ばれる徳川家康の墓があった。日光に改葬される前、死後一年間はここに葬られていたらしい。眼下には太平洋へと続く駿河湾が青々と広がっている。駿府城はここから8 kmほど西に行ったところにある。秀忠に将軍職を譲ってから死ぬまでの10年余り、家康が余生を過ごした地を駆け足で訪れた。
Apr26_2015

大名屋敷跡巡り

 ソメイヨシノが開花したこの週末は息子と大名屋敷跡巡りをした。まずは三日月藩森家上屋敷跡。ここは山手線沿いに案内板が立っているだけで、なんの面影も残っていない。そして線路を挟んで反対側には柳生藩柳生家下屋敷跡。ここも面影というほどの物は残っていないが一部は公園になっていて、サクラが植えられている。案内板によると、当時の屋敷はこの公園なんかよりもずっと広かったはず。それから仙台藩伊達家下屋敷跡。ここも裏玄関に植えられていたとされるブタノキが堂々と立ち、葉を茂らせているのみで、残念ながら当時がどんな感じだったのかを想像するのは極めて困難である。だいたい何か残っていたとしてもそれは誰かの勝手な思い入れででっち上げられた可能性が大きいので、案内板を見て自分自身の想像を膨らませていた方が楽しいかもしれない。
Mar29_2015

熊本藩細川家抱屋敷跡

 国文学研究資料館が立川市に移転し、その跡地に区立公園が開園して2年になる。当初植えられていた樹木は数年もすれば公園になじむかと思っていたが、落葉のせいもあるのかもしれないが未だ真新しい公園の雰囲気である。ここはもともと熊本藩細川家の抱屋敷だったが、三井家の所有となって三井文庫が設置され、その後国の所有となり国文学研究資料館となった。当時、大きな池が残っていたような気がするが、それに比べると今の池はけっこう小さい。大名屋敷だった頃の面影は残っていないだろう。せめて国文学研究資料館だった頃のうちに、雰囲気を楽しんでおくべきだった。
Feb28_2015

渋川春海墓

 近くに渋川春海の墓があることを知り、息子を後ろに乗せ、寒い中自転車で出かけた。自由に入ることができるのか一抹の不安があったのだが、近くまで行くと東海寺大山墓地の標識があり、一般公開されている様子。今となっては京浜東北線、目黒川、東海道新幹線に囲まれた三角形をした変な土地にある。しかも渋川家の墓は、下り新幹線の線路脇数メートルという場所に位置し、上りも含めれば引っ切り無しに走行しており、御霊が安らかに眠ることなどできる環境にない。新幹線敷設の際には、ぎりぎり重ならなかったのか、それとも改葬されたのか。死者を悼む場、生前の偉業を偲ぶ場としてはかなり残念な気もするが、今の東京で当時の状況を最大限残すとすればこんな形もやむを得まい。今年で没後ちょうど300年になるようだ。
Feb14_2015

杉田玄白墓

 虎ノ門に行く機会があり、都営三田線の御成門から歩いた。愛宕神社の出世の石段経由で散歩してみようとiPhoneのマップを眺めていたら愛宕神社のすぐ近くに「杉田玄白」と書かれている。坂を下ってその辺りをうろうろしてみると、案内があったのですぐに見つけることができた。栄閑院という小さくも風情のあるお寺の山門をくぐり、本堂右の小径をちょっと歩いたところにその墓があった。史跡というだけあって手入れがされているわけだが、古臭くないのが意外である。『解体新書』の筆頭訳者である杉田玄白が亡くなったのは文化十四年。『蘭学事始』を出したのがその数年前である。僕の高祖父の祖母であるきくが文化八年生まれであることを考えると、そう昔のことでもないようだ。ほんの200年前のことである。
Jan10_2015

山内家下屋敷跡

 世界の文明について、または地域の史跡について調べ、まとめて提出という娘の中学入学前の社会の宿題があった。前者の方が情報が多く簡単に調べられそうだと娘は考えていたようだが、東海道江戸から最初の宿場町として栄えたこの近辺は寺社、史跡などいくらでもある。独自性を出すためにも後者を選ばぬ手はない。娘と一緒に図書館に行き、あれこれと地元の情報を集め、僕からもいくつか候補を出してやった。近くに山内容堂の墓があり、浜川砲台跡、坂本龍馬像、山内家下屋敷跡など土佐藩に関わる史跡が多いことから土佐との関わりを調べたらどうかという話に乗り、娘は独り自転車で回ってきた。残念ながら容堂の墓は改修中で敷地内に入れなかったようだが、その他の史跡は見つけられたという。あれから2ヶ月くらい経つが、山内家下屋敷跡には行ったことがなかったので、週末、息子と二人で散策に行ってきた。今では浜川中学校の第一京浜に面したところに解説板が立てられているだけだが、書かれていた地図を見るとかなり広い。さすが20万石の大名屋敷である。
May12_2014

東條英機邸跡

 東條英機といえばA級戦犯としてタブー視され、僕らの世代ではその実体を知らされていない感がある。山崎豊子『二つの祖国』を読んで一面でも知ることができたのは幸いであったかもしれない。決して偉人としては扱えないものの、彼から学ぶべきことはあまりにも多い。小説の中で彼の自宅が用賀にあったことを知った。つまり自殺未遂を計り、米軍に助けられた場所でもある。調べてみると用賀一丁目であり、僕の通勤路からそう離れていないので、家族のいない休日を利用して独りふらふらと散策に行ってみた。駅からは離れているが、首都高速をくぐってちょっと小高いところに登った静かな住宅街の小さな一画に石碑が立てられている。せめてこんな物でも遺すとは、世田谷区、そして現在の土地の所有者には頭が下がる。ここに東條英機邸があったのだ。69年前の当時とは様子はだいぶ変っているだろうが、辺りのけっこうな樹齢の木々のいくつかは昭和以前から生えていたものだろう。僕が思索に耽っている間、誰も通ることはなかった。駅の周辺案内図などにも書かれていない。iPhoneで撮影した写真に記憶されている情報によると、場所は北緯35度37分27秒、東経139度38分22秒である。
May04_2014

高校で日本史必修

 きのうの新聞一面に出ていたが、高校で日本史が必修になるらしい。思い返せば、中学、高校における歴史教育は僕の人生に取って何の役にも立っていない。大学受験で日本史も世界史も選択しなかったから、僕の日本史は小学生の頃に中学受験対策で勉強した知識から成り立っているが、はっきりいってそれでじゅうぶんである。社会科においては教師との巡り合わせが悪かったのかもしれないが、どの授業もつまらなかった。特に日本史の教師は学者ぶって、大学の授業はこうなんだと独りよがりに細かい史実ばかりをたらたらと話し、まとまりがない。生徒の側にしてみれば、そんなことを教えられたって、その場では面白いこともあるかもしれないが、流れを自分でまとめておかないと10年も経てば何も頭に残らない。教育者なんかではなく、しっかりした歴史観を持つ作家にでも教えてもらったほがずっとましである。流れをつかむならば細かいことにはこだわらない方がいいので、小学生でもできる。中学受験をやらなくても、中学で日本史は勉強するはずなので、むしろ義務教育9年間における歴史教育を充実させた方がいい。そこで興味を持たせれば、教科書や授業よりももっと
いい勉強方法を自分で見つけられるはず。日本史が必修ならば、大学受験で日本史を選ばなければ損であり、日本の高校においてあまり意味を成していない社会科教育はますますおかしくなってゆく。

大老井伊直弼墓

 久々に娘と二人で出かけた。その帰り、娘は早く帰りたい言っていたが、夕暮れ時に豪徳寺の彦根藩主井伊家墓所に立ち寄った。前々から大老井伊直弼の墓を見に行かねばと思っていたのだが、それをようやく実現させることができた。しかも今まさに日本史を勉強している娘を連れてである。井伊直弼が桜田門外の変で落命して150年になる。子供の頃は江戸時代など、遥か昔のように思っていたが、40年以上生きてみると、ほんの150年前に過ぎないことを思い知らされる。当時のこの暗殺は、今で言えばどれほどの事件に匹敵するのだろう。殺す方も殺される方も、当時の国難に対して持っていた危機意識は僕なんかには思い測ることができないそうとうなものであったと思われる。
Dec14_2013

成務天皇陵と稱德天皇陵

 京都から奈良に向かう途中、iPhoneの地図で現在地を確認していたら、古墳が目に付いた。前方後円墳である。電車の中から確認できるかと思ったが実際には良く分からなかった。思い返してみると、これまで堀に囲まれた古墳をまじまじと見たことがない。これはいい機会なのでぜひ見なければと、学会終了後に足を運んでみることにした。平城宮跡の北側に古墳群がある。そこを散策してみたい。JR奈良線、正確には関西本線の乗車券を持っていたが、近鉄奈良線で大和西大寺まで行き、近くにある成務天皇陵を目指した。宇和奈辺古墳まで歩きたかったが、変更できない指定券を取っていて時間がなく、けきょくこの成務天皇陵と、堀がない稱德天皇陵しか行くことができなかった。周囲を歩いただけでは残念ながら前方後円墳のあの形を認識できない。土が盛られている古墳は手が付けられておらず、樹木が生え放題といった感じだが、陵の入り口は宮内庁によって雑草一本生えていないほどにきれいに整備されている。もう時間がないので、大和西大寺駅まで戻り、京都駅へ。奈良でなく京都でようやくお土産を買う時間を確保した。
May31_2013

愛宕神社の出世の石段

 これまでに読んだいくもの本で目にしていた愛宕山、そして愛宕神社。いったいどんなところなのか気になっていて、いずれ行ってみなければと思っていた。そしてついに今日、息子と京浜東北線で新橋駅まで行き、散歩に行ってきた。3歳の息子を歩かせるにはちょっと遠かった。最初に出世の石段の下に出れば良かったのだが、別なルートから上に上がってしまった。人造の山を除けばこの愛宕山が東京23区内で最も高いらしい。今では高層ビルに囲まれてしまっているが、昔はそうとう眺めが良かったのだろう。出世の石段を下り、帰りは大門駅まで歩いた。
Mar17_2013

東京文化財ウィークで細川家墓所

 僕の9kmほどのランニングコース沿いに熊本藩主細川家墓所がある。塀沿いに石塔を覗くことができるのだが、東日本大震災以来、倒壊の恐れがあるためか立ち入り禁止状態が続いていた。ずっと残念に思っていたのだが、東京文化財ウィークとやらでようやく一般開放のための準備がなされたらしく文化の日の今日、息子と2人で出かけてきた。外から見ただけではよく分からなかったが、中に入ってみると意外に広い。広いのに所狭しと多数の石塔が整然と並んでいる。これだけきれいな墓所を維持するには、そうとうな手間がかかることだろう。元熊本県知事、元内閣総理大臣の第18代当主もここに来て草むしりや墓石を洗ったりしているのだろうか。
Nov03_2012

積年の夢だった伊藤博文公墓所を訪ねる

 伊藤博文がハルビンで暗殺されてから103年になる。近所にある墓所が公開されるらしいので毎年この時期になると行かねばと思うのだが、命日がなかなか休日と合わず、実現していなかった。今年は都か区かの文化財一般公開と重なり、積年の夢をようやく実現させることができる。昨日の日曜日は家族から逃げるように区の囲碁大会に参加して、午前中から午後にかけて家を空け、妻はかなり怒っていた。そこで夕方、息子の面倒を見るという名目で、親子二人、横須賀線西大井駅のすぐ近くにある伊藤博文公墓所にやって来た。 日本国の初代内閣総理大臣だけあって、木々に囲まれ広く、なかなかの墓所である。天保12年、周防の百姓の家に産まれた男の子のこれだけの出世を誰が想像しただろうか。
Oct29_2012

贈従一位山内豊信公之墓

 山内容堂の墓がうちの近くにある。容堂は隠居後の名前なのでここでは豊信(とよしげ)と呼ぶことにする。徳川慶喜に建白書を出し、このことが大政奉還に直接結びついたためか幕末の四賢侯の一人とされるが、いまいち僕の中では、なにかと取りざたされる偉人像がはっきりしない。『酔って候』を読んでからなどとも思っていたが、息子とふらっと来てしまった。建白したのは満39歳。それから5年、大酒飲みの山内豊信は今の僕とたいして違わぬ満44歳にて亡くなり、土佐藩下屋敷があったここに葬られる。実際に贈従一位山内豊信公之墓と書かれた墓石を見てみると日本の歴史を変えた男の一生が偲ばれる。山内宗家の出ではなかったため、幼少期は土佐で過ごしたらしい。高知県は僕が唯一訪れていない都道府県である。近いうちにそっちにも行ってみなければ。
Jun24_2012

九品仏浄真寺

 東急大井町線を西へ行くと「九品仏」という妙な駅名がある。一体何があるのだろう。面白い物があるに違いない。前々から気になっていたのだが、今やこの駅を通る定期券を持っている。息子を連れて散歩に行ってみることにした。駅の北側にあるのは浄真寺、安置されている9体の阿弥陀如来像から九品仏と呼ばれる古刹であった。建物もすばらしいし、境内も手入れが行き届いて美しい。あちこち歩き回りながら、写真やビデオを撮る。旧東海道品川宿の近くとあってうちの近くにも寺は多いのだが、京都にあるような寺とはイメージが全く違う。しかしここはけっこう広い。未就学児の息子と2人で来れば運賃もかからないわけで、時間を見付けてまた遊びに来てみよう。四季折々に違った雰囲気も味わえるかもしれない。
Jun17_2012

大森貝塚のモースの銅像

 大森貝塚と言えば縄文時代後期から末期にかけての遺跡で、歴史の勉強をするとかなり始めの方にモースの名とともに出てくる。今日は息子を連れて大森貝塚遺跡庭園に行ってみた。自転車を漕げば、そう遠くはない。息子にとっては滑り台か何かがあれば良かったのだが、サクラが散り始めた公園内を歩き回る程度で、特別楽しくはなかったようだ。遺跡についても、特に何かあるというわけでもなかった。モースの銅像があったので一緒に写真を撮ってやろうと思ったら大泣きされた。そんな物が怖いのか。

池田山散策

 五反田から上大崎に向かう上り坂は、通学、通勤の自転車でよく上ったものである。後ろに息子を乗せては初めてだろうか。重くなったのか、僕の体力が落ちたのかけっこう辛かった。その辺りが池田山で、今日は2人で池田山公園にやって来た。岡山藩主池田家の下屋敷であった場所である。息子は高度差のある回遊式庭園を探検するかのように楽しんだ。特に池にかけられた石橋は怖いながらも気に入ったようで何回か往復して渡っていた。戸越公園に池田山公園、こんな日本庭園を維持管理し無料で開放しているのだから区もなかなかのものである。そこからちょっと離れた所に別の区立公園がある。皇后の実家、正田家の邸宅があったねむの木の庭である。この場所で午後2時46分を迎えた。あの大地震から1年が経った。
Mar11_2012

熊本藩主細川家墓所

 週末、子供達と自転車で熊本藩主細川家墓所に行ってみたのだが、大震災の影響で閉鎖されており、遠くから少ししか見られなかった。うっそうとした森の中にけっこうな高さのある安山岩製五輪塔がいくつも並んでいて、さすが54万石大名家の墓であることを感じさせられる。ここに幽斎、忠興、ガラシャらの子孫が眠っている。元熊本県知事、元内閣総理大臣である護煕もここに眠るのか。いつ一般公開が再開されるのか分からないが、その時はぜひ中に入ってみたい。
Oct04_2011

江戸城の一ツ橋

 きのう今日と、江戸城平川門のすぐ近くにある一ツ橋という橋を渡った。家康が移封されて来た時には丸太が一本渡されていただけで、こう呼ばれたと言う。御三卿の一つ一橋徳川家はこの辺りに屋敷を構えた。のちに水戸徳川家から慶喜を養子にもらい、紆余曲折はあったものの、最後の将軍を立てることになる。現在の外語大と一橋大は、もともと一つの学校としてこの辺りにあったが、東京商科大学の方が関東大震災の影響で移転し、そののちに一橋大学と改称された。コンクリートの現在の一ツ橋は震災後の大正14年に作られたものらしいが、かなりしっかりしている。
Aug02_2011

品川寺の地蔵菩薩

 週に一回、娘は日記を書いて担任の先生に提出しなければいけないのだが、週末にだらだら過ごしてしまうと、日記を書くためのいいテーマがないことになる。母親と買い物に行っただの、料理の手伝いをしただの、そんなことは書いて欲しくないので男親である僕がテーマを提供してやらなければならない。春休みのスキーはなかなか良かったが、もう何週間も前の話になってしまった。そこで今日は旧東海道品川宿へサイクリングに行くことにした。家からそこまでは交通量の多い車道を走らなければならず、けっこう危険なのだが、旧東海道は走り易い。品川宿本陣跡から品川寺の間を往復した。ここは1年半前、娘とチャレンジウォークで歩いた道でもある。実は、前々から品川寺の大仏のような地蔵をじっくり見てみたかった。さて、家に帰って作文の指導である。この年になっても未だ幼稚園児のような文章しか書けないので、なんとかしてやらなければならない。しかし「お腹が痛い」と言い出しけっきょく今日は半分も進まなかった。
Apr17_2011

荏原の摩耶寺

 息子を連れて、この週末は荏原の摩耶寺に行った。立会道路をずっと西に行った所にある。もちろん自転車だが、かなり遠かった。山門がなかなかいい感じである。行くまで気が付かなかったが、彼岸で、お墓参りの檀家が数多く訪れていた。考えてみれば、お彼岸の墓参りなど、これまでしたことがない。うちの両親はしているのか。
Mar19_2011

大井の大仏

 息子を連れて近辺の寺社巡りを初めて今週で3回目になる。僕が住んでいる辺りは、京都なんかとは比べ物にならないが、旧東海道に近いためか小さい寺などはけっこうある。いい雰囲気を出しているか否かはそれぞれなのだが。今日訪れた養玉院如来寺には「大井の大仏」と呼ばれる如来坐像が5体もある。それはそれですごいのだが、境内の雰囲気がいい。息子も楽しそうに歩き回っていた。
Feb26_2011
プロフィール

Glires

Author:Glires
生物学者の端くれ

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

天気予報

-天気予報コム- -FC2-
アクセスカウンター
水槽
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。